「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」箴言3:5

金持ちの役人の青年は、主に従いたいとは思っていた。が、自分が愛し、慕う、喜びである、肉の部分が捨てられず、富に執着し、主から去って行った。信仰生活とは、どれほど聖書を知っているか、どれほど奉仕し、善行をしているか、又、献金しているかではない。

 

自分の中に、肉の強い欲望があり、肉の思いがあり、主の御心と相容れないものがある事をまず知ることだ。そして、人間的な思いから離れ、捨て、主の喜ばれる事、主に受け入れられる事、主の御心を求めて行く歩みだ。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり」と言われるように、主の御心は、自分の思いと、大幅に異なっている。

 

主の死の事を聞いたペテロが、そんな事が起こるはずがないと言った時に「下がれ。サタン」と言われた。「わたしの邪魔をするものだ」と。ペテロの一見、主を思う人間的思いは、サタンから来ていて、十字架に敵対していた。それゆえ「自分を捨て」なければ、私たちは反対方向に間違ってしまう。しばしば人間的な目で見ると、どう見ても目の前の事が正しい、妥当としか見えない。

 

正しいと思っている自分が、肉の中にいるからだ。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」。正しいと思っている自分に頼らなくなった時に、初めて神がわかって来る。盲人や長血の女や姦淫の女のように、何の手段も無い時にこそ、主に出会う。

 

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自分軸にいる時、自分が正しいとしか見えない。肉の中にいるからだ。しかし、主に向く時に、覆いが取り除かれて、神視点へと目が転じられ、御心へと導かれる。「心を尽くして」主に拠り頼み、絶えず判断を主に仰ごう。