「『わたしに何をしてほしいのか』すると盲人は言った『先生。目が見えるようになることです』」マルコ10:31

バルテマイは、物乞いをして生きていた。盲人ゆえに人に依存して生きるしかなかった。主がエリコに来られた。耳は聞こえ、主の様々な噂を聞いていた。憐れみ深いお方、この方なら目を開く事がお出来になる。そう信じたので叫び求めた。周囲に止めれるが、諦めずに、更に大声で叫び立てた。この方に可能だと思わなければ、求めはしない。

 

すると主は、彼を呼ぶようにと。彼は上着を捨てて主のもとへかけ寄った。上着は、彼にとり大切な必需品、その大事なものを捨てて、主のもとに来た。その彼に「わたしに何をしてほしいのか」と問われると、「目が見えるようになること」と答えた。主は彼の願いをすでにご存じだったが、彼にどうありたいのかと、しっかりと自覚させられた。

 

彼は霊の目が開かれる事を願った。心の目が開かれる事こそが、真の幸せではないのか。真に主に出会い、主の喜びに満ちるなら、状況は問題ではない。私たちはして欲しい事は様々あるが、どうありたいのだろう、核の求めは何だろう。

 

すると主は、「行きなさい」と言われた。もう自分の足で立てる。あなたの信仰があなたを救ったのだと。彼の目は見えるようになった。先に見えるようになって、「行きなさい」ではなく、「行きなさい」の後で目が開いた。

 

主は、自分の足で立って歩むように、自立させて下さる。自立とは、人依存でなく、主に拠りすがって生きる事だ。それを得て、霊の目が開かれた彼は、主を賛美し、崇め、主の行かれる所について行った。

 

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「わたしに何をしてほしいのか」と主に問われるなら、あなたは何と答えるだろう。普段から切なる心底からの求めがあったから、彼は「目が見えるように」と即座に答えられた。主は求めを喜ばれ、答えて下さる。核心を突いた求めができるように、主のお心を求めて行こう。