「サウルと彼の民は・・最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した」 Ⅰサムエル15:9

天に帰るまで、私たちの内には古い人である、罪の性質、肉がまだあるので、自分を捨てて行く事が、日々の祈りであり、歩みとなる。サウルはサムエルにより「アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ」との主の命令を受けた。しかしサウルは従わずに、最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶した。

 

大事なものは取っておき、どうでもよいものだけを聖絶した事になる。この時、主は「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる」と。そして「従わないことは偶像礼拝の罪だ」と。サウルが主の言葉を退けたので、主もサウルを王位から退けたと。私たちもどうだろう。最も良いものを取っておき、どうでもよいものだけを捨てているだろうか。

 

泥酔やギャンブル、嘘、憎しみ、妬み、争い等の罪は、ストレートでありわかりやすい。しかし心の奥の偶像になっているのは、一見、罪ではない合法的な、良いものだ。もっと主に近づきたい、もっと主を親しく知りたい、喜びもって歩みたい、そんな気持ちもあるのだが、主への渇きを妨げて来るのが、心の奥に潜む偶像だ。

 

主以外の喜び、快楽、心地良い思い、充足感、達成感を得られるもの、それは趣味や仕事や人、又、名誉、地位、自己実現かも知れない。点検する事が出来る。それが霊的食欲を減退させるなら要注意だ。それによって、ますます主を求める事になり、霊的食欲が増すなら大丈夫だ。気づかずに潜むものを御霊は気づかせられる。

 

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クリスチャンなら、まずいわゆる偶像を拝む事はない。しかし目に見えない心の奥にある偶像は気づきにくい。最も大事なもの、最も良いもの、大切な宝をしっかり握りしめてしまう。様々な機会に心の奥が御霊の光に照らされて、更に主に近づけるようにして下さる。