「その人は兄のところに来て『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。兄は答えて『行きます。おとうさん』と言ったが、 行かなかった」マタイ21:28 

ある父親に息子が二人いた。父親は兄の方に「ぶどう園に行って働いてくれ」と言った。兄は「行きます」と言ったが、行かなかった。弟にも同じことを言った。弟は「行きたくない」と言ったがが、あとで悪かったと思い、出かけて行った。父親に喜ばれたのは、口先だけで「はい」と言い、実行しない兄でなく、実行した弟の方だった。

 

兄は祭司長や律法学者であり、弟は取税人や遊女の罪人だった。私たちもどうだろう。救われているのだが、兄のように、心の奥に従おうとしない頑なな部分があるだろうか。固い固い自我が、ここは都合悪いので触れて欲しくない、ここは変わりたくないので、そっとしておいて欲しい、肉のままでいたい、明け渡したくない、むしろ肉を楽しんでいたい、自分の都合に合わせて欲しい・・。

 

「はい、従います」の口先の言葉でなく、実際に従うことが大切だ。取税人や遊女たちは、神に従わず、罪を犯していた。しかし、悔い改めて、主を信じ、主に従った。どうであろうと、自分の罪を認め、悔い改め、主に拠り頼む者を、主は救い、罪を赦して下さる。「頑なな者です。どうにも出来ないので助けて下さい」と祈ることができる。すると御霊の助けが臨む。「きょう」、主の喜ばれる選択ができるように祈ろう。「きょう」従うことを助けて下さる。

 

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父親の言葉の重みを認め、素直に聞いているから「行きたくない」と言えるのではないか。真実な父との交わりの中にいよう。出来ない、したくないの偽らない祈りが力だ。