「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」ヘブル12:6

この世の宗教は、商売繁盛、家内安全、五穀豊穣・・だ。そのための信心だ。だが、クリスチャンにとっても、願いが叶うことは嬉しい事であり、思い通りになると心地よい。つらい、苦しい事は、誰しも避けたいし、好きではない。思い通りの事態は大歓迎で、思い通りでない事柄は受け入れ難い。願いが叶えられることは感謝だ。

 

しかし、思い通りでない事態により、私たちは練られ、鍛えられ、成長させられる。思い通りにならない事により、砕かれて、練られて行く。振り返る時、どうにもならない絶体絶命の状況の中で、全身で主を叫び求めたのではないか。主に叫び、拠りすがる事によって一歩一歩と主を新たに知り、自分自身が変えられ、成長が与えられて来た。

 

言えることは、もし成長を望むなら、霊的成長したいなら、痛い事を逃げるな、避けるな、だ。それらによって、霊の感覚が訓練される。苦しみの中で、あがき求める中で、御霊からのもの、そうでないサタンからの誘惑、肉の思い、これらのものがクリアにされて行く。

 

今までわからなかったものが、鮮明に見えて来る。頭の理解でなく、経験によて良い物と悪い物とを見分けることができるようにされる。訓練だ。苦しみを通りながら、見分ける感覚が鍛えられ、研がれて行く。もし霊的成長を願うなら、試練によってそれは培われる。懲らしめは神の愛、まず受け止める事ができるよう祈ろう。

 

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誰しも、痛い事、苦しい事からは逃げたいし、避けたい。しかし逃げるならいつまでも幼子クリスチャンのままになってしまう。成長が無い。「愛する子を懲らしめ」懲らしめは愛だと言っている。試練により砕かれて、霊的に成長して行ける。どんな時にも希望がある。