「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」 ルカ12:20

この世で、懸命に労し大成功を収め、財を築き、今後を左うちわで、安泰に過ごそうとする農夫がいた。作物を貯える場所が無いほどの大豊作をもたらす、この農夫は有能で、農業に長けていたであろう。賢いはずが、しかし神は彼に「愚か者」と言われた。どこが愚かだったのだろう。

 

まず、彼は神を信じない人であり、彼の人生に神は無かった。彼にとっては、収穫作物も財も時間も才能も、すべて自分の力によるものであり、自分のものだった。だが、収穫を与えられたのは神だ。天候や自然は神の支配であり、人間にはどうこう出来ない。働く力、知恵を与えたのも神だ。

 

しかし神を認めることなく、又、有り余る財を得ても、貧しい人に分け与える気は全く無かった。彼の喜びとし、いのちとするものは財であり、物だった。倉に溢れる財に安心だと言ったが、大きな思い違いをしていた。その財を手にしている自分自身、その命は神の手に握られていた。地に幾ら莫大な富を貯えても、天への備えがなければ愚かだ。いのちはこの世の富にではなく、霊にある。

 

神の前に富むとは、まず神を信じ、財をなす力を与えられている神を認め、神に喜ばれるように富を用いる事だ。それは与えられた時も、才能も、労力も同じだ。任されている富、時間、才能、労力を天に繋げて、天に宝を積むことが。愚かでない、賢い生き方だ。今、あなたの心はどこにあるだろう。

 

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自分を頼りに地上を歩んでいると、財が有ればもっともっとと貪欲になり、無ければ思い煩う。いつも神を頼りに歩んでいると覚えたい。神に与えられた恵みの中でこの地上を歩んでいる。