「主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ」 箴言15:33

謙遜と言えば、何を思うだろう。「いえいえ、私などは」と控え目に後ろに下がり、腰を低くする事のように思える。だが、そうではない。口では「いえいえ、私などはつまらない者です」と言いつつ、心の中では、そう思ってなくて、自らを高めていたりする。謙遜とは自分の罪を示された時に、心底認めて行く事だ。

 

サウルがサムエルの命令を守らず、良いものを惜しみ、値打ちの無いものだけを聖絶した。その罪をサムエルから示され、サウルは、弁解しながらも、罪を認めた。そして赦しを乞うた。しかし言ったのだ。「民たちの前で面目を立てて下さい」つまり、民たちには知られたくないと。これは謙遜ではないし、真の悔い改めではない。

 

真に、神の御前に悔い改める時、人の前や体面など見えない。ただただ主の御前に、自分の罪だけが見える。人など入る余地はない。そして、その罪は赦され、全き赦しを受け取り、新しくされる。謙遜とは悔い砕かれた心だ。神は決してそれを軽しめられない。ダビデがナタンから罪の指摘を受けた時、心が砕かれた。罪を告白し悔い改めた。

 

「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった」と赦しが与えられ、恵みが降り注がれた。謙遜は自らの罪を認める。高慢は自分の失敗をも周囲のせいにする。高慢は自らの罪を認めない。自分が間違いを犯したなどと決して認めない。だから赦される事もない。

 

ダビデはナタンに耳を傾けた。高慢は人の助言を聞かない。御霊は罪を指摘される。心頑なにせず、聞き入れ、悔い改める時、赦され、豊かな恵みにあずかれる。

 

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一日でも罪を犯さず、聖くいることは出来ない。人は言ってくれない事も御霊は示してくださる。心を低くし、主からの知恵や訓戒を求める生き方を続けよう。