「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」エペソ1:7

 ダビデはバテシバとの姦淫の後、その罪を隠蔽するために、計略を巡らし、夫ウリヤの殺害に至った。神はこの事のために、預言者ナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンはたとえを用いてダビデの罪を指摘した。「二人の男がいた。大富豪は多くの羊を持ち、貧乏な男は、たった一匹の小羊しか持っていなかった。

 

その小羊を娘のように愛情を込め大切に育てていた。ある時、大富豪の家に旅人が訪ねて来たが、その旅人のために、自分の羊を惜しんで、たった一匹しか持っていない貧乏な男の羊を取り上げ、調理して、旅人をもてなした」ダビデはその話を聞くや、激怒し、そんな男は、即刻、死刑だと叫んだ。

 

それはダビデ自身の姿であり、自分を映したのだ。自分自身に良心の呵責があり、責めがあったからだ。だから激しくその大富豪を断罪した。自分を裁いていたので、裁きは、厳しく人にも向かう。ダビデはナタンの指摘により、罪を認め、悔い改めた。

 

主もまた、悔い改めた者の罪を見過ごされた。十字架の血潮によって、主の赦しをしっかり受け取り、赦された人は、自分を赦す事ができて、人をも赦せる。自分を赦していない人は、人をも決して赦さない。

 

私たちは、主が赦して下さっているにかかわらず、自分が自分を赦していないという事はないか。主の赦しを受け取るからこそ、赦された感謝と喜びと平安に、人をも赦して行ける。十字架の恵みにあずかろう。

 

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自分の罪深さが日々赦されている事を知らなければ、人を赦す事はできない。今の罪を知り、その罪が赦されている事を知ろう。