「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」Ⅰコリント13:1

信仰者同士で議論になる事があるだろうか。ある青年が、教会の交わりの中で、他の青年たちと、他愛もない事から、大した事のない事で激しい議論になった。議論になると、自分は正しいと思っているので、相手を打ち負かしたくなってしまう。強い自我が出て来る。自分の主張が受け入れられないと、怒りが沸く。心で相手をさばいてしまうし、険悪な空気になってしまった。

 

平安なく、帰宅した。帰宅して平安が無いので、聖書を読んでいると「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように・・論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではない」ことを示された。議論になると平安が失せる。それは信仰の名のもとに、自分の正しさを主張して行くからだ。そこに肉が出る。議論のための議論になる。

 

それは、「信仰による神の救いのご計画の実現をもたらす」ものでなくなってしまう。議論になると、負けるのが悔しくて、自分の正しさを主張したい、絶対に負けたくない。相手を打ち負かしたい。経験あるだろうか。何が目的なのかがわからなくなる。「自分の言っていることも、強く主張していることについても理解していない」の通りだ。ここから徒党や分裂が生じる。

 

私たちの目標は「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛」だ。「愛」が目標だ。「この目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走」りがちだ。向上のための、前向きな意見交換は良い事だが、動機が「愛」であることをしっかり定めていよう。

 

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肉は自分の思い通りにしたいし、自分は正しいと思っている。自分の思いを通して行くと、周囲とギクシャクし平安が失せる。そしてその時、「愛」ではない事を示される。目標は「愛」であることを、いつも御霊により思い起こさせられるよう、祈っていよう。