「あなたの神、主を心に据えなさい」申命記8:18

モーセに導かれて、出エジプトを果たしたイスラエルの民は、乳と蜜の流れる地を目指して前進し、神を信仰し歩んで来た。その約束の地、カナンに入れば、信仰は必要無いのかというと、決してそうではない。良い地に入って、食べて満ち足りた後も、「主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい」と。

 

神を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ自体が目的だからだ。ある婦人が子供が欲しくて、祈りに祈って、不妊治療にも通っていた。どうしても欲しい、余りにも強い願望に、ある時、神からもぎ取ろうとしている自分の姿に、悔いくずおれた。このまま行けば、子供さえ得られるなら、手段は何でも良い事になってしまう。

 

突き詰めれば「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」とのサタンでもよいという事になってしまう。恐ろしくなり、心底悔い改めて、明け渡した。心に平安が満ちた。しばしば間違ってしまう。信仰を、自分が良く生きるための、又、何かを得るための、手段にしてしまう。すると、何もかもが的はずれになってしまう。

 

自分の自己実現の手段、喜びのための手段、問題解決の手段、それなら、自分の思い通り、期待通りでない時に、必ずつまずいて、失望し、神から離れる事になる。何かを与えられようと、与えられまいと、神ご自身を信じて生きる事、神を喜ぶ事、神を礼拝して生きる事、これが目的だ。

 

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結果を主に手渡そう。祈っていても平安が無いとき、自分の望む結果に向けて祈っていることがある。主を心に据え今日の一歩の導きを受け取ろう。