「とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11

「求めなさい。そうすれば与えられます」とある通り、私たちは主に祈り求め、沢山の祈りが答えられた事を、感謝している事だろう。しかし、答えられなかった祈りも幾つも経験して来た。そして、振り返ってみた時に、答えられなかったあの願い、この願い・・答えられなかった事が感謝であった事を見いだす。 あの時、この時、あの願い、この願いに、その通りに答えられていたら、間違った道に行っていたと。私たちは、自分の真の必要をわかっているわけではない。どうしても自分軸で、自分を中心に物事を見てしまうので、正しく見えていない。あの時、あの祈りが答えられていたら、自分はどんなにか高慢になって、恐ろしい事になっていたかと思う。

 

道が閉ざされた事で、心砕かれ、へりくだらされ、高ぶる事から守られた。思い通りになっていたら、どうなっていたかわからない。自分的には、これが、あれが、絶対に最善と思うが、美味しい草をあさって迷子になる羊のごとく、目先の事しか見えていなかったりする。

 

主は、遙か彼方まで何もかも見通された上の最善を用意して下さっている。そしてそれは御子のかたちに造り変えて下さるようにとの最善だ。自分の思う最善でなく、主が思われる最善に従って行けたららどんなに良いだろう。自分の思いを横に置いて、主のみ思いを求めてみよう。主が与えて下さるものが、最も良いものなのだから。自分の思いとは違うかも知れないが、「良いもの」を与えて下さる。

 

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長い信仰生活を振り返ると、自分の思いと主のみ思いがしばしば違っていた事がわかる。自分ではこれが絶対に良いと思うが、主の御心は別なところにあった。それを幾度も経験して、主のみ思いを求めて行く事が、幸せへの歩みと思わせられる。