「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」ピリピ1:29

クリスチャンは、時に、信仰ゆえの様々な試練がある。信仰のために苦しみを受ける。だが、そうでなく、しばしば自分の至らなさのゆえに、欠点ゆえにトラブルを起こし、周囲に迷惑をかけて苦しみを招く。これは信仰ゆえの苦難ではない。信仰以前の問題だ。 誰でも、礼儀に反する事をするなら嫌われるし、自己中心に歩めば、問題が起きる。

 

しかし、クリスチャンという事で苦しみを受ける事がある。信仰している事で悪口を言われたり、笑われたり、仲間はずれにされたり、嘲られたり、何もしていないのに非難されたり、不当な苦しみを受ける。

 

「そしりと苦しみを受け、捕らえられ、財産が奪われ」・・今の時代なら、信仰ゆえに、即、命を取られる事は無いかも知れないが、つらく当たられ、馬鹿にされ、村八分にされるような、正当でない苦しみを受ける。しかし、それがキリストゆえの苦しみなら、恥じる事はない。むしろこの事のゆえに、落ち込むのでなく、喜べと。

 

喜び踊れと。そして神を崇めるようにと。「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてうける報いは大きいのだから」と。その人は、たとえ主のために迫害され、辱めを受け、いやがらせを受けたとしても、主との個人的な関係があるので、幸せな人だ。御霊の喜びが与えられる。

 

迫害や苦しみの中にあっても、喜び踊る人々だ。どんなに自分が罪深いかを知り、その罪が赦されている事を知っている。どんな愛で愛されているかを知っていて、いかに苦しい時にも、主が共におられることを知っている。

 

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迫害を受けることは、この世とは違う生き方をしていると認めらたということ。大いに喜ぼう。そのつらさ、悲しさは誰にも理解されなくても主が知っていてくださる。何という慰めだろう。