「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17

信仰生活で大切な事は、自分の思いを捨てて、主のお心を求めて歩む事だ。その主の御心を求める時に「どうか、御心を示して下さい」と一言祈り、聖書をパッと開いて、偶然、開いた箇所の、パッと目についた御言葉を取り「示された!」と言う人がいる。が、それは危険だ。聖書は占いの書ではない。すべての御言葉には前後関係があり、文脈があるので、前後関係を無視して、1節だけを取り出すのは、間違った方向に行ってしまう。

 

時に、神の導きと正反対へ向かう。又、人は、強い願望や思いがあると、御言葉を、自分の都合のよいように、読み込んでしまう。どうしても、人は、肉の思いがあり、自分に良いように、読みたいものなのだ。そうすると御心を誤ってしまう。御心を求める時は、よくよく祈ることがまず大切だ。主と親しく交わり、まず悔い改めるべき事があれば悔い改め、主との関係を正しくされ、素直に率直に祈って行けばよい。

 

そして、日常生活の全般に耳を澄まし、アンテナを張り、御言葉を待つことだ。礼拝メッセージから、デボーションから、信仰書から、信仰者の交わりの中から、様々なものを通して、主は必ず語りかけて来られる。信仰の指導者の助言も参考にするとよい。様々な経験を先に通っているので有益だ。

 

祈りつつ、御言葉を待ちつつ、状況、環境をじっと見ていることだ。環境の門が閉ざされたなら、御心でない。別の道が備えられている。御心なら必ず門がひとりでに開かれて行く。自分でドアを叩き割って進むのではない。主の御手により開かれる。私たちは開かれた道を行く。

 

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主は祈り求める時、進路を導いて下さる。導いてもらわなければ、私たちはどう進めばよいかわからない。よく祈ってアンテナを張り巡らし耳を澄ましていよう。ありとあらゆる所から、御言葉を通して、人を通して、状況を通して、主は導きを下さる。