「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」ガラテヤ2:20

エデンの園で、アダムとエバは、食べるなと命令されていた善悪の知識の木の実を食べたが、それにより、彼らには自意識が生じた。それ以来、たえず自分が自分を見て、量り、裁くようになった。人がどう見ているかを、人の目でなく、自分の目が量る。結局人が恐れているのは、人の目ではなく、実は自分の目だ。

 

自分が、自分の一番厳しい審判者だ。自分が自分を追いつめ、縛るようになった。そのため絶えず恐れと不安が生じ、恐れる者となった。自分が自分を裁く。自分の中に敵をかかえていて、自分を一番傷つけているのは、相手や周囲でなく、実は自分自身だ。これがアダムの罪の結果だった。どうやっても自分から逃れられない。

 

自我、自己愛、自己中心、自己防衛、自己憐憫どこまで行っても自分、自分だ。ここから救い出すために主キリストが来て下さった。この罪を引き受け、荒野で蛇が上げられたように、呪われた姿で十字架にかかられた。主を信じ、罪を悔い改める時、過去のすべての罪が完全に赦される。無罪放免とされる。十字架の贖いにより、すべての罪の片がつけられている。

 

そしてそれと同時に、自分自身も主が十字架で死なれた時に、一緒に十字架につけられた。古い人が十字架で死んだ。自分はすでに死んでいる。ここに救いがある。このどうにもならない自我が釘付けにされた。日々この信仰に立って歩んで行く時に、キリストが内に生きていて下さることを体験して行ける。

 

-------------拠りかかれると思っている自分は、既に十字架で死んだ。自己満足のために労している一つ一つに気づき十字架を仰ごう。主の十字架によって、新しくされた喜びを味わって歩もう。