「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です」マタイ7:15

主は「さばくな」と言われると同時に、「見分けよ」と言われる。裁くことと、見分ける事は別の事だ。目の前の人物や事柄を識別し、評価し、判断することは大切だ。「聖なるものを犬に与えるな。豚の前に真珠を投げるな。それを足で踏みにじり、向かって来て、引き裂く」と。犬や豚をきちんと「見分け」なければ、どうして主の命令に従えるだろう。

 

識別力を行使しなければ、「聖なるものを与えるな」と命令されている、犬や豚を判断することは不可能だ。又「霊だからといってみな信じてはならない」と言われている。世の終わりには、多くの偽預言者、偽クリスチャンが出て来る。何もかも受け入れて、信じてはならないと。この世にあっては「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおで」あれと。

 

では「さばき」はどうだろう。人を「さばいて」いる時は、自分の内に密かな優越感がある。上に立って、相手を見下している。そして自分は義であり善だ。又、相手の非や足らなさ、失敗を見た時に快感があるなら、それは肉であり、さばきだ。それは「さばいてはいけません」を犯している罪だ。肉は、妬みや敵対心のある相手の失敗を喜ぶものだ。これは生まれつきの肉の性質だ。罪の性質でもある。

 

又、肉は批判が大好きだ。自分の内に誰かに対するさばきがあるなら、悔い改めよう。そして、さばきと見分ける事を区別して、光の御使いに偽装して来る偽預言者、偽クリスチャンがいると御言葉が言っているので、見分ける事ができるよう祈り求めよう。「さばき」と「識別」を混同してはならない。

 

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はっきりとサタンがいるし、偽教師がいて、偽者がいると御言葉が言っている。識別せよと言われている。自分自身は絶えず御霊の光に照らされて、罪を悔い改めて、悔い改めて歩もう。そして識別力が与えられるよう、祈っていよう。