「すると、その人はイエスに言った『先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております』」マルコ10:20

この人は、主に永遠の命を受けるためには、「何をしたらよいか」と尋ねた。彼の心を見通しておられた主は、彼を導くために「戒めを守るように」と言われた。すると彼は「戒めは、小さい時から守っている」と答えた。彼は、永遠の命についての質問ではなく、自分は正しく生きている立派な者で、受け入れられる者との自負があったかも知れない。

 

彼は、自分は律法を守っていると思っていた。家柄も良く、小さい時から律法を学び、守って生きて来た。主から、あなたは素晴らしいと言ってもらえるものと思ったかも知れない。しかし「義人はいない。一人もいない」とあるように、律法を守れる人など一人もいない。だからこそ主がおられる。

 

主は、それを教えたくて、「持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えよ」と言われた。だが、彼にはそれが出来なかった。財産に依存していて、彼が愛していたのは財産であり、宝としていたのは、神ではなく、富であった。主は、彼の内側を指し示して、正しい方向へ導こうとされたが、彼は主の前から去ってしまった。財産なら献げたなら、また与えて下さったであろうに。

 

主は、私たちの気づいていない罪を指し示して下さる。悔い改めが与えられ、その罪は完全に赦される。主のもとを去るのでなく、「自分には出来ません。助けて下さい」と、どんな時にも、あるがままを主に祈る事ができる。主はその祈りに答えて、助けて下さって、更に主を深く知る者へと変えて行って下さる。

 

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主は「出来ません。富に執着し、富を愛する者です。助けて下さい」と主にあるがままを申し上げ、助けを求める者を喜ばれ、祈りに答えて下さる。主のもとを去るのでなく「出来ません」と主に近づき、だからこそ更に主を求めよう。