「『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか』・・イエスは起き上がって、風をしかりつけ・・すると風はやみ、大なぎになった」マルコ4:38

私たちの窮状は、神のチャンスだ。絶体絶命の中で、実は、生ける主に真に出会う。主は、常に私たちにとっての最善をして下さる。しかし、私たちには、こうなって欲しい、ああなって欲しいと、自分の思いが強くあるので、それが思い通りにならないと、イライラし、思い煩い、落ち込んでしまう。 先が見えず、目の前も真っ暗になってしまう。

 

しかし、神は独り子を与えて下さるほどに愛して下さり、最善以下のことはされないと、信じているなら、落ち込みから守られる。ある人が、経済的苦境や苦しい対人関係、様々な苦しみが重なり、許容量オーバーになってしまった。

 

もう疲れ果ててしまい、実際、何もかもを投げ出そうとした時に、「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうしてすべてのものを恵んで下さらないことがありましょう」の御言葉が臨み、迫って来た。御言葉がどこまでも追いかけて来て、我に返る事が出来た。主の愛に阻止されて、立ち返れた。

 

四方八方すべて塞がり、何もかもお手上げ状態で、窮し、行き詰まる中で、そこで主の愛に触れ、心は御霊の喜びに溢れた。心が主の平安で一杯になって、問題が問題でなってしまった。そして目の前の経済的必要は、主によりことごとく満たされた。対人関係は和解に導かれた。

 

主のみわざを拝した。どんな窮状も主の御手とご計画の中だ。御心なら状況を変えられるし、又、そうでなければ、私たちの心を変えて、乗り越えさせて下さる。

 

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自分の解決法や計画が先立つときは、祈っても不安が消えない。神のご計画は今はわからなくても恐れず問題を御手に委ねられるよう祈りを変えてみよう。