「とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」ヘブル9:14

信仰生活に「良心」は非常に大切だが、良心とはどんなものだろう。よく、船舶や航空機の方位や進路を測る、羅針盤に例えられる。羅針盤は正しい方向を示すので、自分の言葉や行いを羅針盤に照らすと、方向違いを教えてくれる。

 

しかし、その羅針盤自体が正常でなければ、どうだろう。羅針盤が狂っていたなら、判断も何もかもが狂って来る。羅針盤に故障があるように、良心も絶対的なものでなく、教育や環境で培われた価値観で違って来る。正しいと確信して自爆テロができるし、パウロも神のためと信じてクリスチャンを迫害していた。

 

私たちは心に血の注ぎを受けているので、御霊は御言葉により、平安の有無、促しにより正しく軌道修正して下さる。御霊の促しによく聞き従おう。無視し続けるなら良心が麻痺してしまう。良心が麻痺するなら、どうにもならない。破船になってしまう。どんな立派な船でも、船に穴が開き水漏れがあると必ず沈没するように、良心にも穴があり漏れるなら、信仰が機能しなくなる。

 

心にとがめがある時、確信を持って神を信じて行く事ができない。罪責感がある時、信仰に立てない。罪は、一つ一つ御前に悔い改める事だ。神は主の血潮により、赦して下さり、良心のとがめはきれいに消し去られる。その結果平安が臨む。御霊の導きにアンテナを張り、従おう。その時、正しい良心が保たれて行く。

 

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主の十字架を仰ぐ時に初めて曖昧な良心が平安になる。善行で外側を取り繕うのではなく、罪を主に差し出せば十字架によって赦されている。何という恵みと希望だろう。