「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」ルカ5:5

信仰生活、いつも神の御言葉に立つよう教えられる。しかし、目に見えるところと神の御言葉が相容れない時、現実とズレがある時、どうしているだろう。ある人が二つの「でも」があると言った。厳しい困難が生じた時、「神は益とされる」「神は最善をされる」 「神はご計画をお持ちだ」「神は愛して下さっている」、「でも」、こんな状況で、この悲惨な真っ暗な現実で、どこが愛なのか。神が愛なら、なぜこうなっているのか。どこが最善なのか。最善などでなく、最悪ではないか。何で信じられよう。その「でも」だ。

 

もう一つは、目に見えるところ真っ暗闇で、先も真っ暗で、全く何も見えないが、「でも」神を信じ、神の愛を信じ、神の言葉を信じようの「でも」だ。どちらに立つかで、天と地ほどの差となる。信仰の「でも」を選び取り、全く何も見えなくとも、御言葉に立つ時、必ず御霊の実を結んで行く。

 

不信仰の「でも」を選ぶなら、愚痴と不平不満、失望落胆、怒り、落ち込みの肉の実を刈り取って行く。ある人が、家族が次々と病やけがに倒れ、身動き取れない困難のまっただ中で、信仰の「でも」を選び取り、神は最善以下をされない事を堅く信じ、信仰により、神に感謝を献げた。

 

すると、その信仰は本人だけでなく、周囲をも引き上げて行った。周囲の人々がその態度に、神を見せられ、周囲に大きな恵みと励ましをもたらした。そして、目の前の状況が一つ一つと導かれて行くのを。皆で見せられた。

 

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でも無理だろうと御言葉を信じようとせず目の前だけを見て行動するなら、逆にいつまでも魂は揺らぎ平安がない。御言葉を土台に信仰の「でも」を選び取っていこう。主の平安がある。