「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」ローマ10:17

  主はイスラエルのために、多くの教えを与えられたが、彼らはその教えを他国人のもののとみなした、とホセア書に出て来る。主からの御言葉を、他人事、よそ事として聞き、決して自分たちへ向けたものとはしなかった。自分とは無縁なこと、無関係な事であった。

 

私たちはどうだろう。礼拝でメッセージを聞く時、又、デボーションで御言葉を読む時、他人事としていないか。自分への言葉、自分の事として聞かないので、どこまでも傍観者であり、心に留まらない。右から左にすり抜けて行く。御言葉が心に刺さることも、根づくこともない。

 

又、自分には当てはめないが、他人に当てはめて、あの人に、この人にピッタリだと。あの人、この人は変わるべきだと。しかし、御言葉をそのように聞くべきではない。ただただ自分の事として聞くべきだ。物差しを人に向けず、自分にのみ向ける事が肝心だ。人に向けると、いつしか裁きとなって行く。

 

他人の小さなちりに目をつけるが、自分の大きな梁に気づかない。日頃の御言葉の聞き方はどうだろう。他国人のもののように聞いていないか振り返ろう。メッセージを、御言葉を、自分自身に、自分の生活に当てはめよう。御言葉は光として、心の内を照らし出し、鏡となり自らの本当の姿を映し出す。

 

心の奥が探り出される。慰めや励まし、指針が来て、罪の指摘や矯正がある。御声に従って行く時、必ず成長して行く。変えられて、新しくされて行く。聞く態度が重要だ。

 

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日々、目にし耳にする御言葉を一つでも、自分の事として受け取ろう。感謝できない心が示されたり、また慰められたり、この世にあって御言葉が心を熱く燃やしてくれる。