「ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった」使徒14:7

ルステラでのこと、生まれながらの足なえの男性がいて、一度も歩いた事がなかった。その人が丁度そこに座っていて、パウロが語る御言葉にじっと耳を傾け、聞き入っていた。彼は自分の足に関して、何の手だてもなく、何もどうする事もできなかった。生まれながらの障がいで、どうやっても歩く事は不可能だった。

 

自らに全く望みを置けない、完全に無力の状態だった。自分で何の方法も無い。だからこそ、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」とのパウロの言葉にすがった。すがる事が出来た。もし自分でどうにか出来るなら、自分で出来る事があるなら、何かにすがりなどしない。自分でさっさと行動しただろう。彼はこの言葉にすがりついた。全望みを置いて信じて賭けた。この言葉がすべてだった。

 

自分が完全に無力だからこそ、そうできた。その言葉に頼んだ。信仰が働き、そこに神の力が臨み、奇跡が起きた。一度も歩いた事のない彼が、飛び上がって歩き出した。神の力だった。私達も自らの無力を知る時が、信じる事の出来る時だ。何の方策も無く、何もどうにも出来ない。もう信じるしか道がない。その時に信仰が働く。

 

自分の力、方法に頼っている限り、自分を信頼している限り、神への信仰は頭だけになる。御言葉があっても、自分の力、自分の方法でやって行く。そこに信仰の入る余地はない。信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を委ねて行く事だ。そこに必ず神が働かれる。自らの無力を徹底的に知る事こそが、大きな祝福への道だ。

 

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何のすべもなく、どうにも出来ない無力な時こそ、大きな恵みの時だ。弱くない事が問題なのだが、主は日常の様々な出来事を通して、取り扱って下さっている。壁にぶち当たる時は感謝だ。「わたしの力は弱さに内に完全に現れる」を経験できる時だ。