「さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」創世記11:7

ノアの洪水後、人類は新しい出発をした。全地は同じ言語であった。問題無くスムーズに意思疎通ができていた。人々はシヌアルという平地に定住した。神により、石の代わりに、れんがを作る技術が与えられ、れんがと瀝青で建築物を作ることができた。肥沃な地に住めて、建築の技術も与えられ、すべては神の大いなる恵みであった。

 

しかし、その神の恵みに感謝し、栄光を神に帰するのではなく、町を建て、天に届く塔を建てて、自分たちの名を上げようとした。自分の栄光、自分の名誉、自分の賞賛、自分が神にとって代わった。神の恵みで賜った物や能力を、自分の栄光のために使うようになった。自分たちの偉大さを見せつけるために建てようとしたのだった。

 

これが「神のようになろうとした」アダムからの罪そのものだ。「そのうちに」「我々は、頂きが天に届く塔を建て」、最初は良かったのであろうが、「その内に」方向が狂って来た。神は言葉を混乱させ、意思疎通が不能にされた。その結果、塔の建築は不可能になり、「彼らは建てるのをやめた」塔建築は失敗した。

 

神が阻止された。そして人々全地に散らされた。原因は神への高ぶりであった。私たちが、互いに意思疎通ができない時、そこに「高慢」が潜んでいるのではないか。自分が神の座につき、自己義、自己防衛、自己主張・・していないか。真の一致は、愛とへりくだりにある。そこには必ず御霊の喜びがあり、神の栄光が現れる。

 

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自分の力でもできるとの高慢が、神の御心や御言葉より、手っ取り早い人の助言や自分の方法を優先させてしまう。アダムの罪が自分の内にあることを覚え、御霊の一致を求め祈って行こう。