「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい・・成長を遂げた、完全な者となります」ヤコブ1:2

ダビデはサウル王に妬まれ、命を狙われる。女たちの「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」の言葉が、サウルの怒りを買い、妬みの炎を燃え上がらせた。ダビデは忠実に王に仕え、良く戦い、優れた部下だった。だが、サウルの妬みは憎しみへと増幅し、ダビデ殺害を図って行く。

 

ダビデはサウルから殺されかけ、敵からも命を狙われ、又、息子の謀反により、実子からも攻撃を受ける。自身が病にも陥り、周囲からは攻められ、自分自身も弱り果て、もう絶体絶命の窮地だ。心身ギリギリの限界だ。厳しい悩みと苦しみの中にいた。ダビデこそ神の心にかなった人だった。信仰をもって人生を歩むなら、悩みが無くなるのではない。悩みや問題は必ず来る。

 

その時、私たちは苦しくてたまらず、とにかくその問題が無くなる事、状況が変わる事を願う。問題が問題なのだと思ってしまう。しかし、そうではない。問題は、何ら問題ではない。苦しみの中でこそ、神が神であられる事を身をもって知って行く。ダビデは「嘆きで疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、泣いて泣いて嘆いた。苦しみの中でこそ、神との深い交わりに入れられる。

 

「主よいつまでですか、あなたは」と、率直にありのままの気持ちを神にぶつけて神に近づいている。順境の時には決して経験出来ない恵みだ。何とかしようともがき、走り回るのではなく、問題をすべて神に持ち出そう。自分で当たると空回りだ。心を注ぎ出し、神に寄りかかり、すがりつこう。神との近い交わりを経験し、そして祈りは聞かれ、神の御心が成し遂げられて行く。

 

・・・・・・・・・・・・

問題は次から次へと来て、自分ではどうにも出来ない時に、ただただ祈っていると、不思議を経験する。問題を委ねるようにと導かれ、それも祈りの中で、明け渡して行くと、問題はそのままなのだが、不思議な平安、「主の平安」が心に与えられたりする。