「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17

神から遣わされた指導者モーセが、イスラエルの民をエジプトから救い出すために、パロと掛け合う。神の様々な奇跡のわざにより、災難と苦しみが臨むと、パロは「私は罪を犯した」「悪かった」「私のために祈ってくれ」という一見悔い改めに似た言葉を発する。しかし、その災いが過ぎ去ると、再び頑なで強情な元の姿に戻る。

 

これは、悔い改めではなく、心の底ではそう思っていないという事だ。真の悔い改めなら、180度方向変換し、必ず実を結んで行く。神は「わたしが主であることを、あなたがたが知るため」に、しるしを行われる。しかし、パロには、様々なしるしが、主が主である事を知ることにはならず、脅しみたいなものであった。だからその苦しい状況が退けば、再び強情になった。何も変わらない。

 

私たちはどうだろう。もし高慢に歩んでいたなら、へりくだるように砕きの御手を、苦しみを送られる。これは神の愛であり、懲らしめは愛だ。放っておかれる方が悲惨だ。しかし、その苦しみをパロのごとく、単に脅しのように取るなら、痛いので、確かに悔い改め、反省し、自らを正すのだが、その苦しみが去ると、元に戻ってしまう。そうであれば成長の無い古い自分のままになってしまう。何も変わらず、真の悔い改めに至らないので、実を結ぶ事がない。

 

本当は自分は悪いと思っていないが、苦痛を回避したいだけか、それとも自らの罪を認め、悔い改めているのか。真の悔い改めは、御霊が与えられるので、必ず御霊の実を結ぶ。そして主の完全な赦しを受け取るので、更に主の愛を知って行ける。悔い改める度に主の愛を知れる。ありのままの心を御前に祈ろう。心の内を十分に照らし主の道へと導いて下さる。

 

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何度も失敗し罪を犯してしまう者だ。何も自慢できる捧げものはない。それも神は全てご存じで主の十字架のゆえに受け入れてくださっている。そこに希望がある。