「あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」マタイ25:21

1タラントのしもべは地に隠した。だが1タラントは少額ではない。6千万円に相当する額だ。彼は減らす事を極力恐れた。もし商売に失敗したなら、泥棒に盗まれたなら、主人の怒りが恐ろしい。とにかく減らさず無くさないために必死であった。そのため地に埋めた。しかし帰還した主人は、減らしたわけでなく、そのまま返した彼を、怠け者と叱責し追い出した。

 

失敗して減らすより、現状維持なのだから良いではないかと思えそうだが、主人の思いは全く違った。彼は、本音のところは、主人にいっさい関わりたくなかった。5タラントと2タラントの者が儲けたのは、とにかく主人に喜ばれたい一心であった。

 

それが動機だった。そこには主人への愛情と信頼があった。 それゆえ万一失敗したとしても、主人は受け入れてくれると思えたし信じていた。だからこそ失敗を恐れず、主のために一生懸命に、自由に思いきり商売ができた。そのため良い結果を得た。埋めた彼は、主人理解が間違っていた。厳しい冷酷なひどい人と。そんな主人のために何をしたいとも思わない。

 

私たちはどうだろう? 神理解が間違っていないだろうか。罰を与える、ひどい怖い方だろうか。常に要求され、取り立てる神であり、怖いから従っているのだろうか。神の最大の賜物は、私たちにキリストの賜った愛であった。御父と私たちは、その愛の信頼関係にある。

 

主人はしもべに期待して、失敗のリスクも背負った上で、信頼してタラントを預けた。「主人の喜びを共に喜んでくれ」それは喜びを共にするためだった。御父の大きな愛と信頼を受け取る時、精一杯応えようとしないだろうか。

 

------------

神がただ厳しい冷酷な方だと思っていたらどれだけ苦しい信仰生活だろう。そのようなお方ではないと知っている。結果ばかり考えて恐れを感じるとき、愛ある神に信頼していこう。