「それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」ヘブル3:19

不信仰とは、信仰が不足している事ではない。不信仰とは、自分の力、自分の判断、自分の知恵を信じることだ。つまり、神を頼らず、自分を神として生きることだ。不信仰とは、自分の人生の全主導権を自分が堅く握って放さずに生きることだ。つまり、車の運転席に自分が座っていて、主は助手席だ。自分主導で思い通りに生きることだ。

 

それはむしろ真面目に生きるので、気づかない。不信仰とは、自己実現、自分の利益のために、神を利用することだ。自分のための神であり、自分がより良く生きるための神、あくまでも軸が自分だ。不信仰とは信仰を無視し、否定する事だ。信仰とは、自分の思いを捨てて、神の判断、知恵、神の心を求め、受け入れて、神に頼って生きることだ。

 

自分は助手席に座り、主に運転席に座っていただく事であり、自分と自分の人生を、主に明け渡して生きることだ。信仰によって生きて行く時、自分が変えられて行く。自分の損得でなく、神の御心を求めるようにされる。大きな変化で、奇跡だ。神が喜ばれることを求め、それが自分にとって不利益であり、損になろうとも従って行く。

 

損得の価値観で動かない。自分にとって何が都合良く、楽かではなく、神は何を喜ばれ、神の願いは何かに、軸と視点が変わる。その時、御霊の喜びと平安、真の心の満たしを経験する。そして御霊によって歩んで行ける。

 

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主の十字架によって救われていても、やはり緊急の事態には自分の経験や都合が優先していく。自分で平安の道を探るとき、不信仰に気づきたい。無力な自分を主に明け渡そう。