「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:13

人は自分の非を認めたくないものだ。心には、二人の自分がいる。そして、あらがい戦っている。一人は「人がどうであれ、罪を犯したのは自分だ。自分の罪だ」と言う。しかしもう一人は言い訳し、弁解し、あれこれ理屈をつける。「相手が悪い。相手のせいで、自分はこのようにした。相手がそうしなかったら、自分はしていない。 自分は悪くない。それに自分は疲れていた」自分を正当化し、罪を認めない。

 

一人の自分の内に、異なった二人の自分がいる。罪を認める自分と認めない自分だ。しかしどんな中でも、神に従って行こうとの思いがある時、神は強情な思いを砕いて、悔い改めへと導いて下さる。人は本音では、罪がわかっている。しかし自我があり、素直に認められない。

 

人に注意されたらどうだろう。わかっていても、ムッとなる。言われるとプライドが傷つき、反発心が湧き、心を頑なにする。自分の内の古い人であり自我だ。しかし、それではいけないとの思いもある。内の新しい人だ。肉が改良されて霊になるのではない。肉はどこまでも肉、霊は霊だ。

 

「肉によって生まれた者は肉。御霊によって生まれた者は霊」の通りに。私たちは、この二つの間にあって選択している。肉を選ぶか、御霊を選ぶか、御霊を選ぶなら御霊の実を結ぶ。選べるよう主に助けを求めて祈ろう。失敗した時は、悔い改め、〃前進して行こう。主がそうさせて下さる。

 

---------------

強い自我を感じる一方で御霊による導きも示される。立派な言い訳を肉は用意しても、御霊の導きに従う自由を選ぼう。主が共にいて前進させてくださる。