「私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる」詩篇3:4

ダビデは幾度もつらく苦しい中を通った。詩篇を通して、耐えず心の苦しみ、嘆き、悲しみ、叫びを祈りによってあるがままに訴えている。又、真実を向けた相手になじられ、愛するにかかわらず、憎しみで返されるという非常につらい経験もした。サウル王からの執拗な攻撃や、実子アブシャロムによる歯向かいは、どんなに苦悩であったろう。

 

愛情や真摯な心は相手に通じると思いたいが、そうでない場合がある。誠意をもって接して来た相手が、立ち向かい、攻撃して来る。裏切られるというつらい局面を通る。欺きの口と偽りの舌をもって、憎しみの言葉で取り囲み、なじって来る。

 

しかしこれはまさに、人間の神に対する態度そのものだ。だが神は、神に敵対する者を更に追いかけ、ご自身の御子まで殺して下さった。その御子を私たちはどのように扱ったのだろう。神の愛すら通じないのであれば、罪人であり、自己中心な、人間同士の愛が通じなくとも不思議はない。

 

主は十字架上で、人々の罵りに対してどうされたか。敵対する人々の赦しを御父に祈られた。ダビデも同じだ。サウル王に、実子に、反撃せずに「私は祈るばかりです」と、どの局面でもダビデは絶えず祈っている。ことごとく祈りに持って行っている。相手に復讐するのでなく、神にすべてを打ち明け、吐き出し、叫んでいる。

 

どんな時も神に知って頂くことができる。神に心の内を洗いざらい吐き出したダビデは、いつも賛美と感謝へと変えられている。今、苦しみの中にいるだろうか。「彼らは、私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです」、答えは「私は祈るばかり」だ。神に心の何もかもを打ち明け、聞いて頂こう。神がその事に対応される。賛美と感謝の結実を見て行く。

 

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自分の思いで事に対処し、動くと、ますます糸がからまるばかりで、逆に悪化して行く。まず主に持って行き、祈っていると、主が動かれ、事態を導かれる。洗いざらい心をさらけ出し、主の呼ばわって行く時、不思議に心が平安にされて行く。