「おいでになるはずの方は、あなたですか、それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」マタイ11:3

バプテスマのヨハネが、ヘロデ王の不法を真正面から間違っていると指摘した。そしてその結果、投獄された。ヨハネは正しい事をした。神は正義なるお方、自らの投獄は理不尽であり、それこそ不法だ。何の罪も犯していない。神の御前に誠実に歩んだのであり、主が正しい対処をして下さるはずと思ったに違いない。

 

しかし投獄されて、幾日が過ぎても、何の音沙汰もなく、何も起こらない。イスラエルの王国を打ち建てられ、王となられるのではないのか。正しい事をされるお方ではないのか。自分が思っていた義なる方、力を持って裁く方であるメシヤ像と弟子たちから伝え聞くメシヤ像がかけ離れていた。

 

それで、弟子たちに主に「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも別の方~」と問わせた。主はその時に、弟子たちに答えとして、「自分の聞いたり見たりしていることを報告せよ」と言われた。目の前の「事実」を告げよと。「盲人が見、足なえが歩き、死人が生き返り~」これらは、救い主到来の時の預言であり、預言が成就している。まさに証拠だ。メシアにしか誰にも出来ない事だ。

 

ヨハネが自分でわかる事が必要だった。人に幾ら説得されても、自分で受け取ならない限り、納得はできない。自分で御言葉を真剣に受け止め、真摯に向き合い、事実を認める時に、御霊の助けがあり、真理がわかるようにされる。預言が正しく成就している事に思いが至る。私たちも自分の思い、自分の知識、先入観がある時、神が見えず、物事を正しく捉えられない。

 

神の御心と自分の思いが異なる時、つまずくのだが、自分の思いを除いて行く時に、正しく神が見えて、焦点が合い、御心がはっきりと見えて来る。「わたしにつまずかない者は幸いです」と言われた。今、目の前に起きている、この事に神を見、過去のあの事この事にも神が見えて、神の心がわかって来る。

 

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御心を知るために真っ白な思いで御言葉に向かいたい。目に見える状況も自分の思いを通して見えてしまう。思い込みやすく簡単に御心を外れてしまう。謙遜に主に導きを尋ねていこう。