「食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」ルカ15:23

家を出て、父親からの財産を使い果たし、放蕩三昧で帰宅した弟息子だが、父親は大喜びで迎え、宴会を開いた。なぜ父親は大喜びしたのか。「死んでいた」のが「生き返った」からだった。彼は、我に返って戻って来た。御父は、悔い改めて、父のもとに戻る事をこんなにも喜ばれる。

 

ここに兄が仕事から戻るが、この事態を耳にし、怒りで震えた。自分は今まで遊びもせず、我慢して懸命に父のもとで働いて来た。それを好き放題して、遊びほうけて帰宅した弟のために宴会とは、一体どういう事か。有り得ない、納得が行かない。我慢している自分は何なのか。怒りがおさまらない。父の思いが全くわからない。

 

この世の価値観では、兄の方が常識的に見えてしまう。その通りで、弟を甘やかすな、もっと厳しく扱うべきだと。どうせ又、同じ事をするに決まっている。まず下働きでもさせてみて、本気かどうか確かめるべきだ。それまで雇い人がよい。弟も弟だ。どの面下げて帰れるのだ。これが世の価値観だ。だから兄の方に納得が行ってしまう。

 

しかし神の価値観は全く違った。父親は、息子が何をして来て、今どんな状態なのかをすべて知った上で、帰った事をどんなにか喜び、無条件で受け入れた。

 

どん底で、ぼろぼろで、打ちのめされた、そのままを受け入れた。又、兄息子をも、とがめず叱らず受け入れている。 わたしのものは全部お前のものだと。大きな愛情を表している。私たちも信仰生活で、兄、弟、のどちらにもなる。どうであれ、父のもとへ帰る事を大喜びで迎えて下さる、その無条件の愛に心していたい。

 

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父なる神にとって一人一人が弟息子と同じように、愛する対象で、喜びの対象とされている。何という特権だろう。いつも受け入れられている。兄の目になる時は父から離れていると気づきたい。悔い改めていこう。