「患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」ローマ5:3

信仰を持つと苦しみが無くなるのではない。商売繁盛、家内安全・・受験はすべて合格、畑はすべて豊作、商売は大儲け、そして天国へ行き、めでたし、めでたしと思いたいがそうではない。合格あり不合格あり、病気やけがも、豊作も不作も通る。合格が祝福で、不合格は祝福されていないのでは断じて無い。主に在る時、それらがすべて祝福へと結果して行く。万事益とされて行く。

 

苦しみのプロセスで、練られ、鍛えられ、きよめられ、主の似姿へと変えられて行く。いかに自我が強く、自分の思いが強く、自己中心であるかを知り、砕かれて行く。信仰人生には様々な苦しみがある。自ら犯した罪の結果の苦しみがあり、又、人から受ける理不尽な苦しみもある。主は試煉として、苦しみを与えておられる。

 

罪は悔い改める時、完全に赦される。主は二度と思い出さないと言って下さっている。だが人は蒔いたものは、必ず刈り取る。蒔き刈りの法則だ。ダビデも姦淫と殺人を犯した時に、罪は完全に赦されたが、厳しい刈り取りがあった。痛くつらい刈り取りがあるが、主のあわれみは尽きず、それすらも訓練として私たちの益のために用いられる。

 

主と共に、主に導かれて、刈り取って行く事が祝福とされる。主の尽きないあわれみと慈しみを知る時とされる。試煉があるが、信仰者は必ず乗り越えて行ける。耐えられない試練は、はなから与えられない。一つ一つの試練を通して、必ず成長して行ける。

 

苦しみにより忍耐が培われ、一段階一段階と信仰を強くされて行く。忍耐が練られた品性を生み出す。品性が培われて行く。必ず後の日に、「苦しみに会ったことは、幸せでした」と言えるようにされる。

 

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患難が忍耐を生み、忍耐が品性を生む。つまり品性は、患難により生み出されると言っている。試練は願わないが、主より与えられた時に、受け入れられるよう祈ろう。主が共におられ乗り越えさせて下さるのだから。くびきを嫌い、もがけば痛いばかりだ。