「イスラエルは罪を犯した・・だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ」ヨシュア7:11

  アイへの偵察隊が戻り、「二、三千人で大丈夫」と報告した。そのためアイに三千人を戦いに出したが、予想外の、散々な敗北だった。そのため民の心はしなえ、水のようになった。勝利を信じて疑わなかっただけに、大変なショックであり、動揺であった。

 

主の大きな奇跡によってヨルダン川を渡り、エリコ城壁崩壊の大勝利を目の当たりにし、勝利に次ぐ勝利だ。大いなる神が共におられる、周囲の民もそれを恐れた。その事がヨシュアの拠って立つところであり、一つでも敗北の事実自体が、それらをすべてなし崩しにしてしまう。主の御名はどうなるのか。

 

敵の前で、この敗北は周囲にはどう映るのか。敵にとっては恐れが失せるだろう。恐くも何ともない。重大で深刻な事態だ。ヨシュアは、「なぜですか」と御前にひれ伏し祈った。「大いなる御名のために何をされるのか」と。だが、「大いなる御名」こそが、この敗北を与えられたのだった。

 

全能の神は、同時に「聖い」神であった。「聖さ」に関心を持たれ、聖さのゆえに、罪のあるところには働けない。聖く無い所では、むしろ敗北の方が、神の栄光が現れる。妨げは神の側ではなく、民の側にあった。神との間が正しければ、アイでも今まで通りに勝利していた。神は罪を示し出され、アカンの罪が発覚した。

 

そのアカンの罪が対処された時に、再びアイに上り、完全勝利が与えられた。罪は神との仕切りとなり、平安を失う。私たちには主の血潮がある。罪があれば、今すぐ主のもとへ行き、告白しよう。主は全き赦しを与え、回復させて下さる。心に平安が戻り、罪赦された喜びに溢れる。

 

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罪をそのままにして前進はできない。上手く行かない問題の原因は、外より自分の内にあるのではないか。神の前に罪を悔い改めたなら、豊に赦される。聖い神に歩みを整えてもらおう。