「あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます」詩篇18:27

ダビデは、人口調査をして罪を犯してしまった。サタンがダビデを誘い込んだと御言葉は言っている。人口を数える事は、罪なのか? 民の数を把握する事、それ自体は罪でも何でもない。ヨセフとマリヤの時代にも住民登録があった。しかし、ダビデは民の数を数えた時に、良心のとがめを感じた。それをした動機が間違っていた事を、自分で知っていた。

 

ダビデは、自らの勢力を誇り、自分を誇るために人口調査をしたのだった。神が与えて下さったものを、自らの力と取り違え、高慢になってしまった。神ご自身ではなく、目に見えるものに、軍事力を頼み、力とする恐るべき高ぶりであった。神が与えた罰の大きさを見る時に、ダビデの罪の大きさを知る。

 

ダビデの犯した罪のために、疫病が起こり、罪の無い7万人が死んだ。神は厳しいつらい試練を通して、ダビデの罪を明らかにされた。しかし神の厳しさは、懲らしめは、神の愛だ。ダビデがこの罪を持ったままに、そのままにされなかった。神はダビデに臨み、取り扱われた。

 

私たちはどうだろう。神が上から与えて下さったものを、自分が横取りして、誇っていないだろうか。私たちは裸で、この世に来た。今、有形、無形で所有しているものは、すべてが神から与えられたものではないか。今一度、与えられているものを、神にお献げするなら、聖められて、神に喜ばれるように使うことができる。私物化する事なく、神の栄光のために用いられる。今、与えられているものが、神から来ている事を、今一度認めて、感謝しよう。

 

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何一つ持って来ないでこの世に来た。主より働く力が与えられているから、仕事もできている。主から目を離すと、自分で生きているかのように勘違いし、自分を誇ってしまう。様々な出来事はへりくだりのためだ。主が、愛をもってへりくだらせて下さる。