「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18

私たちが主を信じ、救われた時には、一方的な恵みによった。何の行いも無かった。ただ、主の十字架の身代わりの死を信じ、救われた。その恵みはよく理解できるのだが、救われた後は、しばしば行いで生きてしまう。今までの古い価値観が根深く培われているためだ。この世の価値観は、成果は自分の力がすべてであり、自分の努力、頑張りで勝ち取るものだ。

 

自分を信じて、自分の力で生きて行く。自分以外のものを頼るな、自分の力で頑張れ、がこの世の教育だ。それゆえ恵みで救われたが、救われた途端、信仰生活は自分の力に頼り、頑張ってしまう。祈りも行いになり、熱心な祈りという行いや、犠牲的な献げ物によって、神は愛して下さると思ってしまう。

 

自分の願いが叶えられるためには、もっと頑張って祈りを積み上げ、もっと信じなければと、そこに自分の力が出て、段々苦しくなる。信仰生活がつらくなっていたら要注意だ。救いは一方的無代価だが、その後の祝福は、行いによっていないだろうか。しばしば陥ってしまう。

 

神の愛顧を得るために、神に受け入れてもらうために、何かをするなら、それは律法であり、恵みから落ちている事になる。神に完全に愛されているから、完全に受け入れられているから、感謝が溢れて、自発的自由意志で献げたいと思うのが福音だ。そして自力でなく、全面的に神に頼って生きて行く歩みだ。そこにあるのは苦しい頑張りでなく、神への信頼だ。

 

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主から目を離すと、すぐに律法に陥る。救われる以前の根深い価値観と性質がある。自分の力で歩んでしまい、喜びも平安もなく、苦しくなってしまう。つぶやきと不満になっていたら、すぐに見上げよう。すぐに主はつかんで、御霊の歩みへと導き返して下さる。