「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない」詩篇1:2

私たちの身体は、食事を抜くとどうだろう。2食3食と抜いて行くと、力が入らなくなる。更に抜くと、日常生活に支障をきたす。食事によって肉体は、元気づく。病気の時に、身にしみる。何も食べられなかったのが、食事し始めるや、みるみる体力が回復して行く。車もどうだろう。ガソリンが無ければ、走るだろうか。

 

同様に、私たちの霊も補給が必要だ。時に、余りに多忙な日々が続き、デボーションもおそろかになり、持てない日々が続くと、どうだろう。心がしんどくしなえて疲れて来ないだろうか。又、普段なら気にならない、ちょっとした事が気になり、傷つく。何でも無い事にイライラして、ピリピリする。人の事が気になって仕方がない。カッカする。

 

この原因は、霊的に乾ききっていることだ。心に余裕が無い。油切れの状態だ。これは霊的補給、つまり、主との交わりが必要だ。ガソリンやオイルが減ると警告ランプが点く。霊的警告ランプ点灯状態だ。魂が酸欠状態だ。しばし、主の御前に心を静めて祈ってみよう。不思議な新しい力が来る。

 

ある人は連日の残業で、帰宅は深夜、もう疲労はピーク、身体は倒れる寸前状態、心はカラカラ。ある日、限界を感じ、帰宅するや、自分に部屋に直行し、一人になり、主と交わった。主の御前にじっとおり、心をことごとく打ち明けた。ゆっくりと主と交わると、隅々まで新たにされ、すっきりさわやかになり、息を吹き返した。

 

ある人は、職場の昼休みに、公園に出て一人になり、心を主に向けて祈った。その午後は、心に潤いと平安があった。今、オイル切れなら、しばし心を主に向け、主と交わろう。息を吹き返せる。

 

・・・・・・・・・・・・

主と交わると潤滑油のように、御霊の安堵、平安が臨む。主に頼らずに自分で頑張ると、油切れで余裕が無くなり、ギシギシイライラ思い煩いになる。交わると余裕が生まれる。どうしても時間的に座しての交わりが難しい時も、主に目を向けていると平安に守られる。