「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」イザヤ40:31

鷲は幾ら高く上っても疲れることが無い。それは自分の力で飛んでいないからだ。自分では動かず、じっと風の流れを待っている。そして気流が来たら、その時に、その上昇気流に自分の翼を合わせ、それに乗っかって一気に舞い上がる。翼を広げてどこまでも昇って行く。これが主を待ち望むことだと言っている。

 

自分でどうこうするのでなく、焦りも、急くことも、慌てることもせず、又、心配もせず、ただじっと風を待つ。つまり御霊の導きを待つ。風が、御霊の導きが来たなら、主に身を任せて、主の力を信じて行動する。自分で翼をバタバタと、バタつかせるのではない。主の力に委ねる。だから疲れることが無い。

 

「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる」、どんなに若くて力があっても、風を無視して、気に留めず、自分の力で、高く上ろうと力一杯、翼をバタつかせていたなら、どうだろう。必ず疲れ果ててしまう。信仰生活を、自分の力で頑張るなら、力尽きてしまう。

 

なかなか主に従う事ができない、隣人を愛する事ができない、デボーションが持てない、思い煩いや心配に支配されてしまう・・これら自らの姿を、自分の弱さを、ことごとく主の前に認めて行けばよい。弱さをあるがまま認めて、主を信頼して行く時に、風が吹いて、気流に乗せられて行く。御霊の助けが臨む。もたつかせるのは、最初だけで、気流に身体を乗せて、大空へ高く舞い上がってむ。

 

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主を待ち望むということは、焦らず、諦めず、自分でジタバタするところから解放された姿ではないだろうか。主に献げる信仰だけを頼りに主と共に風に乗ろう。