「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう」ルカ6:38

有名な例えがある。死海は、ガリラヤ湖からの水が来て溜まるばかりで、流す先がない。死海からの川がないからだ。受けるのみ、溜め込むばかりだ。流れ込む水は蒸発する。それで死海の塩分は非常に濃くなる。この塩分濃度のため、魚が生息できない。周囲も砂漠で緑がない。

 

それに反しガリラヤ湖は、フレー湖から流れて来る水を受け、その水をヨルダン川に流している。受けた水を常に出すので、絶えず水が流れていてガリラヤ湖の水は生きている。そのため様々な魚類が生き生きと生息している。周囲も緑が豊かだ。私たちはどうだろう。受けているばかりだろうか。溜め込むだけなら、腐って死に絶えて来る。与えられたものを次に流すと、又、与えられて、いつも新鮮で、生き生きと霊的喜びが流れる。

 

与えられた恵みを証しすると、人の益となり、自分自身にも喜びがあり、又、恵みが増し加えられる。与えられている富、時間、賜物・・自分だけのものにして、握りしめて溜め込んでいると腐って来る。喜びも無い。それを、神に、人に献げて行くと、又、必ず与えられ増し加えられ、霊的喜びの流れが止まることがない。

 

人生何のために生きているのだろう。蓄えるためか? それとも神の素晴らしさを知るためか? 溜め込んで、喜びも無く煮詰まっていないか。神の御心にそって、持てるものを献げよう。又、与えられて、人にも自分にも祝福となり、そして神の栄光が現われる。

 

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人の見返りを当てにすると逆に自由に与えられなくなるのではないか。損も得もなく自分自身を無にして献げてくださった主を見て、主に献げていこう。