「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」Ⅰテモテ6:6

ほとんどの人は、心の奥では自分に無いものを求めていると言う。「ああであれば、こうであれば~」「自分も~~のようであれば」と。違う境遇や、違う背格好や、違う能力や性格を求める。しかし、そうであれば自分を否定する事になってしまう。バラが百合になりたい、足の裏が華々しい目や口になりたい・・と。

 

一生そう思って生きるなら、人生、満足する事が一度も無い事になる。人を羨んで一生が終わる。一流レストランはレストランの、下町食堂はおふくろの味の、それぞれの良さがあり、特質があり比較が不能だ。その事は頭ではよくわかるのだが、頭だけだろうか。

 

信仰によって受け取る必要がある。人と比較し、自分に無いもので、人を羨んでいるなら、まずその事を認めよう。そんな事など思っていない振りをせず、あいまいにせず、自分の羨望や妬みをちゃんと主の前に認めよう。そこから新しい歩みが始まる。自分が誰それのようになろうとするのでなく、人を真似るのではない。

 

主が、代わりが無い独自なものとして創造して下さった自分を認め、生かされて行くことを、祈り求めよう。主が創造されたという事は、代わりがない、かけがえがないという事だ。人のようになるという意味では、決して自分を変える必要はない。だが品格が更に主に近づけられて行くという意味では、変えられて行かねばならない。主は平安な歩みを下さる。もし満足が無いなら、よく心の奥を御霊に探っていただこう。主は平安へと導いて下さる。

 

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主は満ち足りる心を下さる。何という恵みだろう。境遇にも状況にも関係無く、満足を下さる。それは環境に依存しない、主にあっての満足だ。だからこそ、どんな状況になっても、そこに満足がある。こんな幸せは他に無い。