「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸 いです」ヨハネ20:29

主は弟子たちに幾度も、「苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる」と語られた。しかし弟子たちは信じていなかった。ローマ帝国をくつがえし、主が地上の王として君臨し、この世界を支配し王国を打ち立てると思い込んでいた。そのため犯罪人の極悪刑である十字架など言語道断、有り得ない事であった。だから決して信じないし、受け入れない。

 

何度も復活を予告され、実際、十字架で死に、死からよみがえられた主は、弟子たちにご自身を現された。しかし、それを仲間から伝え聞いた弟子たちは全く信じなかった。仲間の言う事すら信じない。「お姿をよく見た、と聞いても、信じようとはしなかった」「ふたりの話も信じなかった」、身近な者から聞いても信じない。

 

主ご自身がその弟子たちに現れて「不信仰と頑なな心をお責めになった」。そして弟子のトマスは、「主を見た」との仲間の証言にも「手の釘跡を見、釘穴と脇に手を入れなければ信じない」と言った。何と頑ななと思うだろうか。しかし他人事ではない。自分の都合や自分の思い込みが、真実を見る事を妨げる。又、見たなら誰でも信じる。見たなら信仰は要らない。見ずに信じるから幸いなのだ。

 

何でも信じ込む盲信や狂信ではない。しかし神を信じるには、信じようとの意志を向け、決心が必要だ。それ無しに信じる事は出来ない。よく心の底を探ると、信じられないのでなく、信じようとしない頑なな心がある。信じるには信じようとの意志を向け、選択し決心する事だ。そこに御霊の助けが臨む。

 

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自分の思いが強いと、事実、現実が見えなくなってしまう事を見せられる。主が見えず、どこまでも自分の思いがあるばかりだ。しかしそんな弟子たちを愛された主は、私たちも深く愛し、気づきを与えながら、成長へと一歩一歩導いて下さる。