「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」Ⅱコリント5:7

モーセの死後、ヨシュアが民を率いて、ヨルダン川を渡る箇所がある。船も橋も無い。春先の雪解けで水かさが最も増える時期で、水はとうとうと溢れ流れていた。主の指示通り、祭司たちは契約の箱をかついで、ヨルダン川に足を踏み入れた。自分の背丈よりも深い川に入って行こうとした。目に見える何の保証もなく、ただ、ヨシュアの言葉だけであった。

 

目の前は水かさ溢れる川だ。「足の裏が、水の中にとどまると、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる」。先に、目の前で川の水が、そのようになってから、渡るなら簡単だ。誰でも出来る。しかし、まだ川の水が岸一杯に溢れている時に、足の水の中に入れる事は決して容易ではない。そのためには信仰が必要だ。

 

見えない中で、示され、語られた御言葉に従うことが信仰であり、そして信仰もって従う時、いつも神のみわざを見る。何も見えなくとも、一歩従う時に、不思議が起きて確かに神が見えて来る。私たちは、先が見えない状況は怖くて進めず、見えたなら従おうと思う。しかし見えたなら信仰は必要無くなる。すでに見えているのだから。

 

先にヨルダンの水がせき止められたのでなく、足を踏み入れた後に、せき止められた。この順番は重要だ。見えたなら従おうとするなら、一生従えない。今、示しがあるなら、御言葉を頼りに、何も見えない中で踏み出そう。神の素晴らしいみわざを見ることになる。

 

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「みわざを見せてください、それから従います」の態度ではないだろうか。自分の想定を超えることは誰しも不安だ。不安の中で、全く神に信頼する信仰を祈ろう。信じる者に働く神の力を見よう。