「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩篇139:23

ある人が、対人関係において、主に在る自分は常に正しくあろうと、公平であろうとして来た。そしてそうしていると思っていた。自分は人を偏見で見ていないし、そう見る人たちは間違っていると。しかしある時、御霊の光で照らされた。自分の心の奥深くでは、自分はそのような人たちのようではないと、優越感を持ち、偏見を持つ人々を見下している事に気づかされた。 表には出さないが、心では別の差別をしている醜い自分に気づかされた。

 

まさに取税人を裁き見下している、パリサイ人の姿そのままではないか。愕然とした。神に反抗しているなら、わかりやすいが、表面的には、正しくあろうとし、従おうとしているので、返って気づかない。

 

パリサイ人は自分は正しいと信じ込んでいた。御言葉と御霊の光が臨む時、私たちも、心の奥底が見せられ、自分の姿を知る。落ち込むが、神はそんな事はすでにご存じの上で、愛して下さっている。神は知っておられるが、自分が自分の本当の姿を知らない。試練を通して、行き詰まりを通して、本来の姿を教え、見せて下さる。

 

余裕のある時は、幾らでも自分を繕えて、うまく見せられるが、切羽詰まった試練の時に、全く余裕の無い時に現れる姿が、自らの本性だ。言い訳や弁解せず、自分を正当化せず、その自分を認めて行く時、キリストのかたちへと変えられ、成長して行く。

 

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「人の内側のものと心とは、深いもの」とあるように、罪深い、醜い自分を知る。それに向き合い、認めて行けるのは、主に愛されているからだ。主の愛があるから、そう出来る。どんなにひどくても、主は変わらない愛で、愛して下さっているからだ。