「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」Ⅰペテロ2:24

ある人が、職場でどうしても、そりの合わない相手がいた。いつも嫌な感じに思っていて、相手も同じように思っているだろう。性格が合わない。話すとギクシャクし、相手にトゲを感じる。時に批判され、嫌でたまらない。憎しみが湧く。段々、話す事が苦痛になり、避けたい。

 

だが、自分はクリスチャン、これでよいとは思えない。平安が無く、心は重苦しい。その事を祈りに持って行き、そして牧師にも相談した。すると「じいっと十字架を見てごらん。何度も何度も見てごらん」と不思議な事を言われた。言われた通りに、じいっと十字架を見つめた。なおも見つめ続けていると、なぜか涙が出た。

 

「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず」御父にすべて委ねられた主。あの極限の状態の中で、「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と赦しを執りなされた。何をしているのかわからない自分のための執り成しだった。自分は一体何をしているのか。十字架により、主のもとへと戻らされた。

 

自己中心を悔い改め、しかしこのまま愛し受け入れて下さっている主に感謝した。その時、相手の欠点しか見ていない自分に気づかされた。長所など全く見えない。相手を責め、裁き、トゲを出していたのは自分だった。私たちの原点、帰る所はいつも十字架だ。解決は主の十字架にある。ノウハウや処方箋ではない。主の十字架に愛と力がある。

 

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クリスチャンだから嫌な人にも愛を持ってと思うが、本当に難しい。自分自身の醜い罪が主によって赦されたと、そこを認めることから始めたい。主の打ち傷のゆえに癒やされたのだと。