「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」ルカ10:36

当時ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係にあった。そのサマリヤ人が、傷を負って倒れていた敵であるユダヤ人を助けた。サマリヤ人の動機は心からの「同情」であって、それ以外の何の下心も無かった。あわれみ=かわいそうに思う心+行動だ。単に感情的、感傷的な同情でなく、そこに行いが伴う。

 

彼は、目の前で苦しみ、助けを必要とする人に自分に出来る事をした。関わるのが嫌だと、逃げて去らず、「近寄って」ぶどう酒は消毒用に、オリーブ油は薬として惜しげもなく使った。自分の家畜を使い、自分の予定を急遽変更し、宿に同行し、一泊し、親身に介護の上、費用も全額負担した。中途半端でなく、至れり尽くせりだ。

 

愛するとは犠牲を払う事だ。自らの金銭、労力、時間を突然の必要のために、彼は惜しまずに献げた。犠牲を払わずして愛する事は出来ない。そしてその後、彼はきちんと自分の仕事をするために出向いた。自分の仕事をし、再び帰りにお世話をした。自分の責任を放り投げて世話するのではない。自分を必要としている家族を顧みず、人の世話ばかりにかけずり回るのは違う。

 

自分の責任は果たすべきで、なおかつ、助けを必要とする人に、自分に出来る事をして行くことだ。御霊が導いて下さる。今、御霊の示しがあれば「近寄って」、従おう。祭司とレビ人は関わりたくなくて、逃げた。自らの何かを献げて、仕える事を、今、示されているなら従おう。それが隣人になるという事だ。

 

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どれ程の犠牲が必要なのか、また満足な手助けが出来るかと、実行する前に躊躇するが、祈り、御霊に導かれながら一つ一つ実践していこう。通り過ぎる言い訳より今出来る事を行おう。