「キリストは、人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」ピリピ2:8

アダムとエバが、エデンの園で罪のほうを選択した結果、罪を犯してしまった。罪はプライドの形をとり、以来、人はプライドで生きている。男性は自分の仕事や地位に高いプライドを持ち、母親は子供に夢を託し、子供によって自分のプライドを満たそうとする。

 

様々な対人関係で、プライドとプライドが衝突し、争いや、妬み憎しみが起こる。ある婦人はお節介な隣人にいら立っていた。余りに立ち入って来るので、怒りが湧き、冷静にではなく、苛立ちに任せて言葉を発しそうになった。何とか守られ、御前に祈った。

 

心の内をことごとく告げて、祈っていた中で、主のへりくだりを見せられた。相手ばかりを責めてしまうが、自らを省みる時、こちらも愛の無い態度を示された。自らの非も気づかされ、心が変えられて、次に会った時に、日頃の助けを感謝できた。確かに助けてもらっている事も事実だ。

 

すると相手の態度が変わり、相手も柔らかくなった。そうこうしていると、悩みを相談して来られ驚いた。御霊に従う事の祝福を経験した。プライドに生きると心休まる時が無い。パリサイ人は徹底してプライドに生きた人たちだ。彼らの立派な行いの動機は、愛でなくプライドだった。

 

プライドでも立派な行いが出来る。主はプライドとは無縁で、徹底して愛に生きられた。様々な問題が起こる。その中でプライドが砕かれ、へりくだらされる。今の問題にプライドが潜んでいるだろうか。ありのまま祈ろう。取り扱って下さる。

 

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プライドや虚栄から解放されたらどれほど真っ直ぐに事実が見えるだろう。人の良いところも、自分の罪もありのままが見える。主に祈り主のへりくだりを学ぼう。