「・・聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」ローマ10;14

ある人が、人生の大変な苦境にいた。深刻な問題を抱え、経済的にも立ち行かず、死をも考えるほどの瀬戸際だった。そんな時、買い物に入った店で、レジで支払いをしていた時に、背後にかかっていた言葉が目に入った。店主がクリスチャンであり、壁に御言葉の色紙を飾っていたのだった。「神は愛なり」とあった。心に焼き付いて離れなかった。

 

帰宅後も、その言葉が頭から離れず、グルグル回った。「愛?」「神が?」「愛って何?」「神とは?」「どういうことなのか?」「神が愛なら、なぜ今自分はこんな瀕死の状態なのか」。御言葉にたましいが捕らえられたかように、思いからどうしても離れず、翌日その人は、店主に意味を聞きに行った。

 

すると店主は、店の奥の座敷に上げてくれて、聖書から丁寧にその意味を話してくれた。そして身の上話を真剣に聞いてくれた。店主の愛情を通して教会に導かれ、主を信じることができた。試練には脱出の道が備えられていて、生活のめどが立ち、苦境からも救われた。御言葉を用い、クリスチャンを用い、苦しみの中にあるたましいを導かれた。

 

別の人も引っ越し先の全く見知らぬ地で、不安と孤独の中、隣家のクリスチャンが親切に、ゴミの出し方、病院や店を教え、お茶に招いてくれたりと、優しく接してくれた事を通して、主を知る事となった。私たちもそれぞれ何かのきっかけがあって救いに入れられた。今度は、私たちが誰かの救いのために用いられるなら、どんなに幸いだろう。様々な方法で、主は人を救いに導かれる。そして私たちを用いて下さる。

 

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御言葉を、証しを、誰かが語らなければ、聞く事ができず、主を信じることが出来ない。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない」とあり、まず祈る事が大切だ。祈りから御霊が語る機会を与え、語るべき相手を導いて下さる。