「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう」ヨブ42:1

ヨブに極めて厳しい試練が臨んだ。子供たちやしもべ家畜、所有物をすべて失ってしまった。実は、神とサタンとのやりとりの裏舞台があったのだが。正しく生きて来たのに、何でこんな目に会うのか。余りの理不尽さに、思いきり不満を神にぶつける。私など生まれなかった方がよかった、なぜ、こんな苦しみを受けないといけないのか。

 

何も悪い事などしていないのに、「なぜ?」「どうして?」なぜ、なぜのその答えが欲しい。ヨブ記の最後の箇所で、ずっと沈黙を保たれていた神が、口を開かれる。が、「なぜ?」には、神は答えられなかった。「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか?」と逆にヨブに次々と問いかけられる。ヨブは答えられず、黙り込んでしまう。

 

ヨブの「なぜ?」の問いには答えられなかったが、ヨブは、神の語りかけに納得する。神への不満も捨て去って、神の前にひれ伏す。なぜヨブは変わったのか。「今、この目であなたを見」たからだ。神は説明を与えられたのでなく、ヨブにご自身を現された。何という恵みだろう。私たちは極限の苦しい状況の中で、理由を論理的に説明されたとして、それで生きて行けるのだろうか。

 

しかし神に会うならどうだろう。神を見て、私たちの霊が、神の臨在に触れるなら、どんなつらい状況でも、心は御霊に満たされて生きて行ける。神との生きた交わりの中で、平安と喜びが臨み、満足が来る。そして神の愛を信頼できるので、心満たされて生きて行ける。

 

------------

理不尽な出来事に遭遇するとその理由、落としどころを見つけようとし、すぐには信仰によって受け止められない。けれど素直に祈る中で神のお心に触れる時、共にいてくださる御臨在に心が満たされていく。