金や銀は、炉で溶かして精錬し、不純物を取り除く。それは高温の、熱い炉の中で溶かさなければ、不純物は除去できない。しかし精錬により除去可能だ。私たちも、内にある不純物を除去するために、試練の熱い炉で溶かされる。その悩みの炉の中で、自分の弱さや内側のものがあらわにされる。不純物が浮き彫りにされる。
それは、私たちの不純物を取り除き、精錬するためだ。そのために試練を通される。その中で、不平不満、愚痴で苛立ち、反抗的思いが湧き、感情的になってしまうかも知れない。普段は知る事のない、表に出ないそんな自分自身の弱さを知る。しかし耐えられない試練は決して無い。必ず乗り越えられる試練であり、逃れの道も備えられている。
信仰人生で、出会う一つ一つの試練は、すべてクリアできると言っている。許容量オーバーの試練は無い。これは主の約束だ。しかしその試みの中で、正しい態度が大切だ。屈折したり、逃げたり、いたずらに落ち込むのでなく、主からのものと、信仰を持って受け取る事だ。自分の思い通りでないし、思いとは全く違う。
肝心なのは、自分の思う最善でなく、主の最善であり、主が自分のために思って下さる最善だ。ご計画がある。主は患難から忍耐を生み出し、忍耐から練られた品性が生み出され、試練により品性が変えられ、培われて行く。
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手放す不純物はなにか、目の前に来た問題を肉の価値観ではなく信仰の目で見ていこう。悲しく思える試練も失望に終わることはないとの御約束だ。試練の中で主に近づき希望をもっていよう。