「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」ヤコブ1:2

この世は、「家内安全」「無病息災」「商売繁盛」「五穀豊穣」であり、信心はそのためであって、悪い事、負の事が無いためだ。この世は都合良い事が善、不都合な事が悪だ。しかし主は、すべてが感謝であり、善い事だと。一見、負の事柄も、私たちに良い事として、訓練として与えて下さっている。私たちの益のため、成長のためと。

 

そして「ご自分の聖さにあずからせようとして」懲らしめると。だが、それを訓練として受け入れなければ、ただつらく痛いだけで何も学ぶ事がない。早く過ぎ去って欲しいばかりだ。又、逆に反抗し、心を屈折させてしまう。何度痛い所を、試練を通っても、何も変わらない事があり得る。それなら同じ失敗を繰り返すばかりになる。

 

主のお心は、私たちが成長し、豊かな実を結んで行く事だ。私たちをキリストのかたちへと変えて下さる事だ。ある人が、「今、試練が次々に来ています。だが、自分はただしゃがみ込んで、頭をおおっているだけです。通り過ぎて欲しい、逃れたいばかりです。

 

でもそうじゃなくて、この事を通して、私を霊的に成長させたい、もっと主に近づけたいと思っておられるとわかります。この試練をしっかり受け止める事が出来るよう、そして何を教えて下さりたいのか、この事でのメッセージは何なのか、求めて行きたいです」と。試練は悲しいが、必ず平安な義の実が約束されている。痛いが、受け止めて行けるよう祈ろう。

 

-------------

包み隠せない心を注ぎだして試練の時には祈る。主と一時も離れず結びついているのが試練の時ではないだろうか。結果がどうであれ、主への信仰が深められて試練のトンネルを抜けたい。