「さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった」出エジプト13:17

神は、出エジプトに際し、約束の地カナンへの道のりを、近道であるペリシテ人の国には行かせず、「荒野の道」へ向かわせられた。「民が戦いを見て、心が変わりエジプトに引き返すといけない」との理由からで、そこに神のご配慮があった。長年の奴隷生活で、戦いの訓練など全く無い民が、ペリシテや敵との戦いが恐怖で怯えて引き返してしまう。

 

私たちの価値観の中に、近道、早く到達する事が善との思いがないだろうか。遠回り、苦しい事、困難な事は避けて通りたい。しかし、神は近道ではなく、あえて苦しく長い荒野の道を通される。神が困難な道を通されるのだ。神に不可能はなく、今すぐに、願っているものを一気に与えて下されば良いのにと思う。延々時間がかかり、まさに遠回りさせられていると感じる状況がある。

 

自分の思いやプランと全く違う道を歩ませられる。しかし、そこを通ってこそ、忍耐や信仰が培われ、その渦中でこそ、神のご愛や真実を経験する。明け渡す事を経験させて下さり、成長が与えられる。そこを通らずしてあり得ない。そしてその通り道には、雲の柱、火の柱が伴い、神の臨在があり、行くべき道が示される。

 

荒野での灼熱の太陽から雲の柱で守られ、夜の暗闇を火の柱に照らされる。道中決して「民の前から離れなかった」。今、荒野なら神を信じ、従って歩もう。片時も離れず共におられ、導いて下さる。

 

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近道を行きたいのに、時に、遠回りをさせられていると感じる事がある。思い通りにならない状況を経験する。しかしそここそが主の栄光を見る場所であり、主を知れる場所であり、沢山の事を学べる時だ。そして雲の柱、火の柱により、必ず進むべき道が示される。