「彼らはヨハネのところに来て言った『先生・・あなたが証言なさったあの方がバプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます』」ヨハネ3:26

主が来られた時、皆の関心と人気が、バプテスマのヨハネから主に移ってしまった。人々は群れをなして、主の方へ行った。その時にヨハネの弟子たちは、群衆がこぞって主に行き、主が大きな人気を博している事に妬みを覚えた。自分の師への身びいきゆえであった。しかしヨハネは全く違った。

 

「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできない」と、全主権が主にある事を認め、心から受け入れていた。自分は主が与えて下さるものを受けるのみだ。そしてそれが満足だし、それこそが真の満たしなのだと。別の人に関心が高まり、人々がついて行くなら、それも主のなさる事であり、自分がどうこう言う事ではない。

 

ヨハネは与えられた境遇、位置、立場、能力をわきまえ、心から感謝し、満足していた。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」。満足する心は主からのものだ。肉の内に、満足は無い。肉はどれほど手に入れても満足する事はない。もっと、もっとと、常に不足だ。貪欲は底なしなので満足する事がない。 私たちはどうだろう。誰かが褒められれば、結果を出したなら、心騒ぎ、ざらつくだろうか。絶えず主を認め、与えられた場所、地位、能力に感謝し、受け入れる時、私たちの心は、どんな境遇であれ、平安に守られる。あれが無いこれが無いと、今の境遇に不満だろうか。視点を天に向け、主語を主に置き換えよう。 主からの境遇であり、そこに主からの使命があり、豊かな祝福が備えられている。主を認めて行く時、見方が変わる。不満が感謝に変わり、どのような境遇であれ、心が主によって満たされるので、御霊の喜びが与えられる。

 

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泣く人と共に泣けても、喜ぶ人と素直に喜べないところがある。主と自分との関係に何も影響はないと苦い思いを主に手放そう。物事をありのままに受け入れた自由な生き方を選択したい。